学校の概要

 本校は、具志川市の6古城跡のうち、最南端に位置する江洲城、俗称「イーシグシク」の西側丘陵地に位置する学校である。

 初代江洲按司は、北山城からきた英祖王系統の伊波城主の子孫であったとする説や、江洲城は今からおよそ570〜580年前の尚巴志王時代に築かれ、尚巴志の六男布里王子や尚泰久王家五男尚武が江洲按司として居住したとする説等がある。

 『おもろさうし』巻16の35「うらおそいふし」には、 えすのもりくすく えすのつちくすく えすはかほうくに 又 えすのろの おやのろ 又 けおの よかるひに 志げて もわにまへて と詠まれている。

 王家と縁を持ち、豪勢を誇った城下町として栄えた江洲村は、宗教的に高江洲、宮里村を支配し、その面影を残す祝女殿内(ヌンドゥンチ)や按司墓、あるいは年中行事の獅子舞などによる伝統を背に静かに息づいている。仲原は今から200年ほど前この地に「屋取り」として入ってきたが、現在の沖縄市宮里の前仲原と江洲の後仲原がある。

  昭和41年2月に中部病院が字宮里飾田原に建設されて以来、看護学校の設立や周辺の土地区画整理事業により人口が集中しはじめた。以来、人口の増加による学校の統廃合や新設校の誘致等により、昭和52年4月1日に兼原、高江洲両校で分散開校し中原小学校が創立した。

 翌昭52年11月30日に全県初のオープンスペースのある、じゅうたん敷、全館冷房の校舎が完成し、12月1日、両校から江洲・宮里・赤道・新赤道の児童を分離統合し、児童数815名、21学級、教員数28名をもって移転開校するに至った。その後、赤道団地の建設等により、さらに赤道小学校が新設され、昭和55年5月30日に分離式を行っている。

  現在は、江洲・宮里・赤道・志林川の4区を校区とし、校区内には、県下随一の医療体制を誇る沖縄県立中部病院があり、沖縄電力中部支所やメイクマン具志川店、サンエー具志川メインシティやサンエー赤道ショッピングタウン、志林川郵便局、飲食街等、医療、産業、商業の集積する地域として発展している。

 土地区画整理事業等による人口の集中は、地元住民をはじめ他市町村や県外からの流入も多く、新しい気風がみなぎっている。本校の南西部には同事業のさらなる進展が見られ、今後ますます発展していくものと推測される。保護者の職業は公務員、会社員、建設業、商業、軍雇用員、自営業、サービス業など多岐にわたり、かつての農業地としての面影はない。

 平成20年度には、「中原小学校増改築併行防音工事」と「屋内運動場およびプール改築工事」が実施され、31年間慣れ親しんだ沖縄初のオープンスペース校舎は、平成22年1月、新しい姿に生まれ変わった。平成24年12月1日には、「中原小学校創立35周年記念式典」が盛大に行われた。